STEM教育の重要性は明治時代から言われていた『福沢諭吉の科学のススメ』

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今回の書評は『福沢諭吉の「科学のススメ」―日本で最初の科学入門書「訓蒙窮理図解」を読む (Non select)』です。

福沢諭吉の科学のススメ成分

福沢諭吉は日本のSTEM教育提唱の元祖

STEM教育とは理工系教育という意味で、以下の4つの単語の頭文字をとったものです。

  • Science (科学)
  • Technology (技術)
  • Engineering (工学)
  • Mathematics (数学)

近年のAIの台頭で、今後多くの仕事が失われるといわれています。

これからの時代を生き抜くには技術に精通している必要がある。アメリカのオバマ元大統領やビル・ゲイツ氏がSTEM教育の重要性を説いている。今こそSTEM教育が大切だ。時代の波に乗り遅れてはいけない。元マイクロソフト日本法人社長の成毛眞氏をはじめとするインフルエンサーがこのように声を上げています。

しかし本書を読めば、STEM教育の重要性は今に始まったことではないことがわかります。

本書は福沢諭吉が書いた物理学の入門書『訓蒙 窮理図解(きんもう きゅうりずかい)』を解説した本です。物理という言葉がまだなく、窮理(きゅうり)という言葉を使っていました。

福沢諭吉といえば1万円札でおなじみ、慶應義塾大学の創立者であり教育者です。代表的な著作は『学問のすすめ』で、「天は人の上に人をつくらず…」という言葉は教科書にも出てくるくらい有名です。

しかし学問のすすめの出版は明治5年(1872)、窮理図解の初版は明治元年(1868)。窮理図解の方が先に出版されました。つまり福沢諭吉は教育者として理工系の学問をやるべき、と主張していたのです。

外部リンク:窮理図解 – Wikipedia

福沢諭吉は多数の本を出版しましたが、理工系の書籍についてはこの1冊だけです。1冊しか出版しなかったせいか、あまり注目されていません。

福沢諭吉が理工系の大切さを主張したにもかかわらず評価されないことに、著者の桜井氏はガッカリしています。引用させていただきます。

自然科学に関係した彼による書物は、この一冊のみだし、諭吉に関する研究者のほとんどが、理系の学問にあまり縁のない人たちであったこともあって、この本のことは、これまでほとんど触れられていない。

桜井邦朋 『福沢諭吉の「科学のススメ」—日本で最初の科学入門書「訓蒙窮理図解」を読む』祥伝社 (2005) p.19より引用

福沢諭吉に影響を受けた後世の人々が、理系人間ではなかったから浸透しなかったのではないか。あとに出版された『学問のすすめ』や『文明論之概略』といった啓蒙書が評価されてしまったから、理工系よりも文系としての諭吉に注目されたのかもしれません。

もしそうだとしたら、この現象は現在で言えばビジネス書が世間に多く流通していることに通じるかもしれません。専門書よりもビジネス書ばかり読まれている現状は私も不思議に思っています。

本書はこのような福沢諭吉の成果を埋もれさせてはいけないという危機感と、理工系教育こそ国の将来を左右する大事な学問であるというメッセージを伝えるために書かれました。

STEM教育が重要だと主張しているインフルエンサーや教育活動をしている人は一度読んでみてほしい本です。

本書はただ原著を現代語訳にしたのではありません。理工系の専門書ではなくストーリーとして楽しめる一冊です。

まず日本人にひそむ科学の捉え方のズレを指摘します。そして福沢諭吉がどのように科学に出会い、窮理図解を出版するに至ったかという歴史的背景の説明。さらに原著の内容が正しいかどうか、物理学者である著者が補足解説をします。

原著は自然現象の解説がメインですが、温度計や望遠鏡、ポンプで水をくみ上げる動作といった原理も説明しています。テクノロジーについても扱っていたことには驚きです。

19世紀の物理学の内容ですので、数式による解説はありません。現代物理学のような整備されていなかった時代とはいえ、当時最先端だった内容を福沢諭吉はきちんと理解していたと、著者は高く評価しています。

サイエンスプロデューサーでもあった福沢諭吉

本書の第3章から窮理図解の原文と現代語訳による解説が始まります。

最初のテーマは温度と熱についてです。この世界に生命があるのは熱があるからである、という導入から熱の性質について説明されていきます。そして太陽の熱を凸レンズで集めることで物を焼くことができるということをイラストつきで説明しています(p.71)。

窮理図解で最初に取り上げた身近な自然現象

私も小学生のころ学校の校庭で、虫眼鏡で太陽の光を集め落ち葉に火をつけた経験があります。もちろん落ち葉1枚だけなので火事にするようなことはしていません。ただ本書の解説ページを読み返し、あの実験をしたときのワクワク感がよみがえってきました。

小さい子が興味を引くような内容から入っている点でも科学の入門書としてきちんと考えられています。福沢諭吉の本書のプロデュース力は、サイエンスプロデューサーの米村でんじろう先生に近いかもしれません。

原著全編を通していくつものイラストが出てきます。タイトルからもわかるように、本書は図解をベースにした物理学の入門書です。これから学ぶ人のためには言葉だけの説明ではいけないことを福沢諭吉は理解していたのでしょう。

ただし、図解による説明自体が諭吉の発明かというとそうではありません。別記事でも解説しましたが、江戸時代にはすでに数学(和算)の本が多数出版されていました。それらは数式の展開だけではなくイラストを交えていました。

関連記事:数学や技術にも精通していた偉人『教養として知っておきたい二宮尊徳』(福沢諭吉より100年以上前に出版された江戸の数学本は図解で、二宮尊徳はその本で数学に精通していたのではないかという話)

私が知る限り、『学問のすすめ』には図解はなかったはずです。それよりも先に出版されたこの物理の本はイラストつきで解説していた。しかし注目されたのは図解の理工系本ではなく、文章だけの啓蒙書だった。

いつの時代も良いものが受け入れられるとは限らないのでしょうか。

著者だからこそできるユニークな視点の解説

ここからは著者のことを桜井先生と呼ばせてください。私は桜井先生と面識があるからです。

本書が出版された2005年当時、私は神奈川大学の大学院生でした。神奈川大学の学長を勤められた後も名誉教授として在籍していた桜井先生から、2年弱と短い間でしたがご指導いただきました。

本書を購入した際、先生には失礼を承知でサインをお願いしました。先生は快諾してくださり「若い時代はどんな努力でもできる」という直筆のメッセージをいただきました。このサインは今でも大切に保管しています。

この記事の執筆時点でも先生はご健在ではいらっしゃいますが、私が海外生活していることもありまたお会いできるかはわかりません。当時のエピソードを残させていただきます。

先生本人から直接聞いた話ではありませんので物語としてお聞きください。先生は埼玉県の農家のご出身で、元々大学に行く予定はなく家業の農家を引き継ぐ予定だったそうです。大学受験は1度だけのチャレンジという両親との約束で、高校3年から短期間で受験勉強し京都大学に一発現役合格したとのことです。

そして京都大学に入学し、同大学院を修了。NASAや米メリーランド大学教授にて宇宙物理学者としてご活躍されました。

控えめに言って天才ではないでしょうか。

本書のようなニッチなテーマを扱えるのも、先生が並ならぬ博識ゆえなのでしょう。私のような人間が桜井先生からご指導をいただけたのは本当に奇跡としか言えません。感謝という言葉では表せられません。

先生とは雑談をさせていただいたこともあります。先生は海外生活を通じてクラシック音楽を聴かれていました。私も当時はクラシック音楽を聴いていたのでお話を伺いました。しかし先生は「近頃はあまり聴いていない」と言われたので、私は思わず「飽きたのですか?」と尋ねてしまいました。それに対して先生は「いやいやそんなことはない」と笑顔で否定されました。

別のエピソードもあります。私が在籍していた当時から「地球温暖化の原因は二酸化炭素ではなく太陽の活動」と持論を展開していました。先生から直々に太陽の活動に関する小冊子をいただき「感想を聞かせてほしい」とお願いされました。私は中身が難しくてわからず、また自分の研究で忙しくきちんとお返事ができませんでした。

このように、大変失礼なことばかりしていました。

私は神奈川大学には2年間しか在籍できず、中退扱いだったため去るときもご挨拶ができませんでした。もし機会があればそのときのお詫びができればと考えています。

短い間でしたが、先生の印象はとても良かったです。アメリカで教授まで経験した権威者であるにもかかわらず威圧的な態度など一切なく、本当に謙虚な方でした。私にとって数少ない尊敬できる大人でした。

このような人との出会いは人生を豊かにしてくれます。一期一会を大切にしたいですね。

今回紹介した本