プロフィール

略歴

ダイブツ近影

Yamaguchi Daisuke, 博士(工学)
1981年 東京生まれ、横浜育ち
2003年 帝京大学理工学部卒業
2008年 岡山大学大学院自然科学研究科博士後期課程修了
※ダイブツは私が小学生の頃についたあだ名です。

このサイトのロゴ

サイトのコンセプト:はばたく理系は「私の持つすべてのノウハウを理系目線で解説し、より良く生きるヒントを提供したい」をコンセプトとした個人メディアです。

ロゴに込めた想い:私があこがれたキャリア「世界で勝負するエンジニア」をイメージしています。デフォルメ化した技術者が、スクリュードライバーをほうきに見立ててまたがり、グローバル人材としてはばたくイメージです。左下のHRは「Habataku Rikei(はばたく理系)」と「Human Resources(人材)」の2つの意味を持つイニシャルです。

ロゴ制作者:もちさん @motichan@moti_graph99
台湾アイドルのウェザーガールズの追っかけを機に、個人的にイラストの制作をお願いしています。このサイトのロゴは男性ですが、女性のイラストが特徴的で特にK-POPアイドルのイラストには定評があります。力強い線の中にもかわいらしさを主張しているタッチに惹かれました。可愛い系の女性だけでなく、いい女系の女性イラストまでプロの仕事をしていただいています。

もちさん制作イラスト
もちさんに過去制作していただいたイラスト

職歴

  • 2008年–2014年 日本国内の制御盤設計会社で電気系エンジニア、SIerの業務に従事(5年9ヶ月)
  • 2014年–2017年 シンガポールに移住し、日系大手メーカーでFA機器開発の電気系エンジニア兼チームリーダーとしてローカルスタッフのマネジメントに従事(現地採用社員として2年6ヶ月)
  • 2017年– ベルギーに移住し、日系大手メーカーで空調機器開発の電気系技術サポートに従事中、またシンガポールでの経験を活かし日系メーカーの海外業務改善のアドバイザーも担当中(現地採用)

著書

外部リンク:Amazon.co.jp 著者ページ

はばたく理系カバー

はばたく理系 平凡な理系学生だった私が使いこなす英語を習得してシンガポールで現地採用技術者として働くまでのおはなし (2017)
kindle電子書籍をAmazonで見る (ASIN: B0719SCYPM)
紙の本(POD)をAmazonで見る (ASIN: B07B14J275)

講演・インタビュー記事

資格

  • IoT検定レベル1プロフェッショナルコーディネーター
  • TOEIC870点(2015.03)
  • 工業英検2級
  • 基本情報技術者

ノマドじゃなくても世界のどこでも生きられる!『エンジニア×バイリンガル×海外移住』な私の自己紹介

はじめまして。バイリンガルエンジニアの山口と申します。このサイトをもっと知っていただくために、まずは私の自己紹介をしたいと思います。

この記事をすべてを読むのに5分以上かかります。下の目次から気になる部分だけもお読みいただけます。

幼少期のころ

自分のことを振り返ってみると、私は海外生活に元々憧れていたわけではありません。

両親は共に日本生まれ、日本育ち、エリートでもなく、留学経験もありません。私はそんな普通の家庭で生まれ育ちました。大学に入るまではとにかくファミコンやプレステといったゲームばかりやってました。ただ今考えるとそれなりに理由があります。

小学生の時にはミニ四駆が流行り、友達は近所の模型屋さんで自分用にカスタマイズしたミニ四駆を走らせてました。私も真似しようとして一台買ったのですが、「改造は手をケガして危険だからダメ」と両親に言われてそのままレースデビューする前に放置してしまいました。

中学生の時に学校で初めてパソコンに触れたとき、自分も欲しくなって両親に買ってほしいとねだったのですが、「高いからダメ」と言われて買ってくれませんでした。

同人誌を中学のクラスメイトと作ろう、という話になったこともあります。私の家にクラスメイト何人かが集まって、各々の書きたいマンガの内容を打ち合わせしたことがあります。しかし、その一度きりで2回目の集まりもなく、結局作品は何も完成しませんでした。

そのような体験から、自分のやりたい事といえばいつしかファミコンをやるだけになりました。勉強も親に言われてやっていただけで、自分から進んでやっていた訳ではありません。

もしこの時にミニ四駆やパソコンをもっと自由にやらせてくれていたら、違う人生を歩んでいたかもしれません。ただ今みたいに外国に興味も持たなかった可能性もあります。だから運命というのは本当にわかりません。

チャレンジ人生の原点は、理系大学院の挑戦から

大学ではITを専攻しました。しかし普通の地方の大学なので英語は必要ありませんでしたし、私は全く勉強はできませんでした。外国に対して興味がないのは当然でした。

ただ大学に入ってから変わったことがあります。それは一人暮らしを始めたことです。その時から、パソコンを自作したり、アルバイトをやったり、麻雀漬けになったり、自分のホームページを作ったり、自分のやりたいことができるようになりました。この頃から自分で情報を発信することが好きだったのでしょう。

お尋ね:インターネット博覧会をご存知ですか?

その頃は大学を普通に卒業してIT系の会社に入り、人並みに結婚して、人並みの生活をして、という程度の将来しかイメージしていませんでした。

ただ不思議なことに「社会人になったら英語くらいできないとダメ」、「社会人になったら本くらい読めないとダメ」という社会人像を持っていました。そのため大学生の後半からなぜかTOEICの受験と読書をするようになりました。

そして大学3年生の頃に卒業研究の配属で運命が開かれていきます。自分の希望していた教授の研究室が定員オーバーで、厳しいと有名な違う教授の研究室を選びました。

配属が決まって最初の面談で「プログラマーは不夜城の奴隷だからやめなさい」という教授からの一言。何のためにIT系に進んだのか?自分のことが分からなくなりました。

その教授の一言は「プログラマーではなくシステムエンジニアになりなさい」という意味だったと今は解釈していますが、どのみち日本の会社に勤めるからには同じ気がします。幼少期の頃の私といい、もっと自分の芯をしっかり持っていれば良かったのでしょう。でもその頃は本当に世間知らずだったので、言われたことを真に受けました。

そんな矢先、大学から「大学院飛び級」の話が来ました。大学生活を知らない両親はどうしてよいかわからず、この件も教授に相談しました。回答は「大学院に行くなら飛び級せず卒業してからでも遅くはない」ということでした。

IT系の会社に進むことに躊躇したこと、受験勉強に負い目のあった私は、自分自身のチャレンジとして大学院に進学します。

大学院生活は私の人生で一番のどん底でした。パワハラも受け、大人の都合で大学院は2回転籍しました。それでもがむしゃらに文献を調べ上げて人のやってないことを見つけて、コンピュータでシミュレーションして論文にまとめて発表することを続けました。

そして奇跡的に留年せずに博士号を取得することができました。今の自分の基礎的なスキルをここで鍛え上げたといっても過言ではありません。

『エンジニア』になるまで

大学院を修了することを優先していたため、就活は少ししかしませんでした。この頃(2008年)は博士向けの就職口といえば大学か研究所に行くのが普通でした。しかし結局どこも決まらず、新卒の権利は消失しました。

指導教授からお誘いがあって台湾に行き(後述します)大学の職を探すもそれも失敗し、最終的に日本国内の制御盤設計会社に就職しました。大学院とは関係のない仕事で、大学院に行ったことを本当に悔やみました。

ところが、就職して一か月後にリーマンショックが起きたのです。もしあのタイミングで台湾から帰国していなかったら就職はもっと厳しくなっていたのでは…と考えると、本当にぞっとしました。

日本で働いていた頃
マグロの青森県・大間に出張したとき

私のいた部署は新規顧客開拓を目的としていたので「受けた仕事は何でも断らずにやる」というスタンスでした。そのため、制御回路(リレー回路)の設計、製造、出荷検査、現場での調整、トラブルシューティング、荷物の運搬など何でもやりました。

プログラミングもやりましたし、お客様の現場でネットワークをつなぐといったIT系の作業もしました。そのため、大学で学んだことはそれなりに活かしてました。

一番忘れられないのは、国と国を結ぶ海底ケーブルの通信局舎を雷から守るために、局舎敷地内のどこに・何メートルの深さに・何本電極を埋めれば良いかという接地設計の仕事でした。

会社は測定器を必要に応じてレンタルし、測量データの解析も外注してました。仕事なのでお客様満足が得られればいいのですが、どうして自分たちで測定器やデータ解析ツールを持たないのか?「他人のふんどしで仕事をしている」感じが嫌でした。技術の会社だから「自分たちのノウハウを持つべき」という持論がありました。

かなり高度な専門性が求められた仕事なので、チャンスと思い図書館で地面の抵抗値の測定方法やデータ解析方法を調べて自分なりの解析プログラムを製作しました(もちろん勤務時間外に調べました)。しかし上司には「そんな無駄なことはするな」と言われました。エンジニアリングって何?とがっかりしました。

こうして『エンジニア』の私はできあがりました。

私はスペシャリストになりたかったのですが、目の前のことをがむしゃらにやってきたことで結果的にはジェネラリストになりました。

ただこれまでの経験から「学術界と産業界の両方のバックグラウンドがある」、「ソフトウェアとハードウェアの両方の見識があるジェネラリスト」と自負することができます。

『バイリンガル』になるまで

幼少期から英語とは無縁の生活をしてきましたし、両親も英語は全く話せません。大学受験に英語は含まれていましたが、中学英語ができれば問題ないレベルでした。

大学院でお世話になった指導教授は中国語がペラペラでした。私が研究室に配属された時には既に中国や台湾の大学教授と私的な交流をしており、先輩が中国留学するなどの活動をしていました。

大学院に入って間もないころ、中国から留学生が短期滞在でやってきました。彼は英語でまくしたてるように私の研究内容を尋ねてきました。私は全く聞き取れず、教授に助けを求めても何もしてくれず、決して良い思い出ではありませんでした。

そんな私が一念発起で英語をやる決意をします。2つの出来事が私の気持ちを変えました。

1つ目は「英語で論文を書こう」という心境の変化でした。

大学院修士課程が修了し、博士課程に進みました。まず、博士課程では英語の能力を証明するため、国際学会にて英語で研究発表する必要がありました。また、私の研究内容はコンピュータシミュレーションをやっていましたが、日本の論文よりも英語の方が論文の審査に有利な面がありました。そのため、機械翻訳をやりつつ英語で論文発表をしました。

2つ目は「台湾との縁」でした。

2004年に中国の北京と武漢に交流目的で教授と渡航しました。その時は風邪をひき、万里の長城で買った水で腹をくだすなど、全く良い思い出はなく海外に目覚めることはありませんでした(その代わりタバコを止めることができました)。

2005年に初めて台湾に行った時のことです。まだ英語の話せない私に台湾の学生はとてもやさしくしてくれました。当時知り合った台湾人の友人とは今でも交流は続いています。

台湾の友達
台湾との縁で海外に目覚める

台湾では一部日本語も通じますが、何よりも台湾での交流が「英語で国際交流をもっとやりたい」と思えるようになったのでした。また、英語で論文発表して「世界で勝負する一人前の研究者になりたい」とも思うようになりました。

それから英語の猛勉強を始めることになりました。どうやって学習し克服したかについてはストーリーとしてまとめました。このサイトのメインコンテンツの1つです。

関連記事:英語習得物語 目次

日本国内での英語学習でTOEIC750点まで取り、基本的な読み書きと交流はできるようになりました。そしてフィリピン語学留学とシンガポール生活でさらに実践を積み、スコアは870点まで取ることができました。

こうして『バイリンガル』の私はできあがりました。

海外就職へのチャレンジ

私の最初の海外就職活動は2008年に台湾でやりました。右も左もわからない27歳の大学院出たての男が、台湾人の大学教授のお誘い(つまりコネ)で後先考えずに台湾に渡りました。

台湾中部にある某大学での応募の誘いをいただき、学長、学科長、そして日本語の話せる台湾人先生と3人で面接をしました。それまで親切にしてくれた日本語の話せる先生が、面接の場で手のひらを返し「お前に何ができる」と学科長とペアで私を潰しにかかりました。

学長は握手してくれて採用しても良いという結論だったので、日本に一時帰国し海外渡航記録などの資料を取りに行きました。3週間後台湾に戻ると「結論保留」となりました。どうやら例の二人が反旗を翻した様でした。学長はその間アメリカ出張で不在、私は借りたアパートで1か月軟禁状態でした。

台湾就活時代
2008年4月に台湾で就活していたころ(台湾中部彰化にて)

1ヶ月待った結果は「不採用」でした。大学院生時代から続いてきた教授らとの人間関係に疲れ果て、挙句の果てに「山口が資料を用意するのが遅いからこうなった」などと難癖をつけられ、ついに大学との縁を切り日本に帰りました。

最初の海外就職は失敗でした。ただ前述の通り、日本で就職してからすぐリーマンショックが起きたので、あのまま台湾には長く滞在できなかったでしょう。間一髪で日本に帰ってこられたとも受け止められるため、運命とは本当にわかりません。

次の海外就職活動は日本で就職して6年後になります。日本でエンジニアとして忙しく働くうちに、台湾との縁は少し疎遠になりました。働き始めて最初の3年間台湾には行きませんでした。日本の会社によくある「有休取りづらい空気」が私の勤めた会社でもありました。

ただその空気に耐えられず、2012年のゴールデンウイークに4年ぶりに台湾に行きました。短い滞在日数でしたが、台湾人の友人が知り合った時と変わらずに暖かく迎えてくれたことが嬉しく、帰りの飛行機では男泣きしてしまいました。

この台湾旅行にて「我慢せず自分の信じることをやる」と決意しました。2014年には日本での仕事もいよいよ耐えられずに会社を辞めて、日本での海外就職支援サービスにお願いします。34歳で初の転職活動です。一度ダメだった海外就職をもう一度挑戦しようと決意しました。

まずはタイの会社に日本で面接を受けたり、Skype面接を受けたりといった活動をしました。そして最終面接を兼ねてベトナム、シンガポール、香港の3か国を周遊しました。結果的にシンガポールの第1希望の日系大手メーカーの電気系エンジニア職を得ました。

香港に到着した日にオファーの電話をもらい、思わずガッツポーズしました。ビクトリアハーバーの夜景を見ながらひとりで祝杯をあげたのは今でも忘れません。自分の力で勝ちと取ったオファーだ、と思いました。

香港から日本に帰国し1週間後にはもうビザを取得してシンガポールに引っ越ししました。シンガポールの部屋は家具付なので、スーツケース一1個での引っ越しでした。米米CLUBの『浪漫飛行』に出てきそうなおはなしです。

シンガポール生活
シンガポールではムスリム家族と共同生活を経験

シンガポールではインドムスリム(つまりイスラム教)の家族の部屋を借りて二年半共同生活しました。また、シンガポールで就職後1年後にはチームリーダーとなり、ローカルスタッフ(シンガポール人・マレーシア人・中国人)のマネジメントを経験させていただきました。

日本とは違う環境でうまくいかないことはたくさんあります。それでも日本では得られなかった経験は何物にも換えられません。国も言葉も肌の色の違いも超えて、シンガポール生活や就労経験が今後の私の人生の『起点』となることに間違いありません。

その後さらにベルギーで働く機会も得ることができ、まさにグローバルに働く技術者になれました。こうして『海外移住』の私はできあがりました。

この体験をベースに海外就職のノウハウをまとめたのが「海外就職のトリセツ」シリーズです。

関連記事:海外就職のトリセツまとめ

「色々な人生があっていい」を情報発信していきたい

ここまで長文をお読みいただきありがとうございました。

私のことをまとめるとこのようになりますでしょうか。

  • IT系の大学・大学院出身で博士号持ちという理系のバックグラウンド
  • ものづくりエンジニアでバイリンガル(目標はマルチリンガル)
  • 日本、台湾、シンガポールなど複数の国(大陸)の滞在や就労経験がある
  • かといって駐在員ではない、バックパッカーでもノマドでもない

私自身はここまで目の前のことを一生懸命やってきました。そしてそれが普通のことだと思っていました。しかし、周りの人たちはそうは見ていないことに気が付きました。私を芸人の様にいじって小バカにする日本人たちもいます。

海外生活は人生の一つの選択肢です。日本は便利で生活で困ることはまずありません。

ただ、スマートフォンで繋がるようになり狭くなった世界。終身雇用や大企業=安泰という前提の崩壊。変化が速くて見えにくい将来。このような時代にどうやって生きていくか?

私がこのサイトを通じてやりたいことは『どこでも生きていけるライフスタイル』という情報発信です。特に若い人たちには「色々なチャンスがあるんだ」ということを、当サイトの記事を通じて紹介したいと考えています。

残念ながら台湾やシンガポールにいたときのコンテンツは残っていませんが、今の私にできる情報発信ができればと思います。

このサイトで「今までにない生き方」に気づいていただいたり、「こんな生き方があってもいいんだ」と思っていただければ幸いです。

ベルギー生活
ベルギー・ゲントにて

2018.06.02追記:ベルギーで就労中、もう少しで過労死という心臓発作を経験しました。残業はしていないのですが、これまでの無理が出たのかもしれません。今回生かしていただいた以上、少しでも命のある限り情報発信を続けたい所存です。これからもよろしくお願いします。

関連記事:心臓発作で倒れたけど心臓は悪くなかったおはなし