英語習得物語 第3話:TOEIC385点で米国学会発表

この記事は約 6 分で読めます

英語論文執筆に挑戦

大学院博士課程に入学後、アメリカ・ロサンゼルスで開催される国際会議を自分で探し、自分で論文を英語で書いて、投稿しました。どうせやるならダメもとで本場の経験、本物の経験を積みたかったからです。

まずは論文を書かないといけません。理系の国際会議論文は大体 4 – 8 ページの間が主流で、私の投稿した学会の原稿は 6 ページまでというルールでした。当然最初から英語で文章は書けなかったので、原稿は日本語で用意してオンライン翻訳サイトで英語に翻訳しました。

翻訳された英文はそのままコピーできなかったので、自分なりに手を加えました。例えば、研究に関わる専門用語をチェックして明らかに違う単語は修正しましたし、文法も中学で習った 5 文型を遠い記憶から引っ張り出して(といっても S + V + 残り!みたいな感じで)書き直しました。

本書の執筆がきっかけで当時の原稿を読み返したら、やはり今の私が見てもおかしな文章が多かったです。三単現の s がないとか(科学技術系論文は原則現在形で書く)、 “a” と “the” の使い方を間違えているとか(今でもわからない時がある)、文章が入り組んでいる (which とか that でつないでいる文が多い)とか…。

それほどひどい私の英語論文でしたが、実際には “accept” (審査のうえ受理されて会議録に掲載される、つまり研究業績として実績に残る)されました。文法的に誤りはたくさんありましたが、内容は読んで理解していただけたのです。内容が分からなければ拒否されたはずです。

当時審査していただいた先生方には本当に感謝です。嬉しかったと同時に、いかに中身も文法もちゃんと書くことが大切か、ということを教えていただきました。

プレゼン後のやりとりで聞き取れず

TOEIC 385 点でひとりで学会発表。今思うと何と無謀というか、若かったというか。とにかく当時はやるしかないという感じでしたので、怖いもの知らずだったかもしれません。

渡米の前に指導教授と初めて台湾に行き、私的な研究交流をしました。そこで、今も交流が続いている台湾人のお友達と知り合い(当時は学生同士)、とても楽しい時間を過ごすことができました。台湾の学生は英語ができない自分にも優しく接してくれて、とても良い思い出となりました。それが「海外って良いな~」と志向が変わるきっかけとなりました。

その翌週に成田空港からロサンゼルスに向かうのですが…風邪で体調が悪く、成田空港駅で職員さんに迷惑をかけて駅の事務室で休ませていただきました。

学会の会場はロサンゼルス空港近くのホテルでシャトルバスがありました。シャトルバスで荷物を降ろしてくれたお兄さんに無事チップも払うことができ(それすら初体験)、チェックインしてまずは体を休めました。

国際会議の会場では何とか体調は立て直して、事なきを得ました。学会での平均的な持ち時間は発表時間 15 分、質疑応答 5 分で合計 20 分です。私は何とかパワーポイントとつたない英語で発表しました。

座長さん (chairperson: 司会進行) は私が学生なのを気遣ってくれたのでしょう、質疑応答はなしで何かペラペラ言ってました。私の発表内容を補足してくれたのであれば良いのですが、何を言ったのかは全く聞き取れませんでした。私は座長さんの脇でただ立っていることしかできませんでした。始終和やかなムードで、私のプレゼンが終わる時間になると、会場の参加者の皆様は笑顔で拍手してくれました。

こうして私の「アメリカデビュー」は何とか終わりました。

スターバックスでも聞き取れず

学会発表が終わった後は、会場のホテルからロサンゼルス市街のホテルに移りました。

そのホテルには朝食が含まれていなかったので、建物一階にあったスターバックスでフルーツとチーズのセットを購入しました。その時の店員さんとのやり取りです。

店員: ティーンダラーズ
私: ? (10 ドル紙幣を出す)
店員: (無言でレシートを私に見せる)
私: サーティーンダラーズ!

つまり thirteen の “th” が聞き取れなかったのです。基本中の基本の数字、しかもたった 1 語の thirteen を聞き取れなかった自分の英語力がとても惨めでした。さっとレシートを出した店員さん、きっとこういう客が多くて慣れていたのでしょう。

そもそも “-teen” と言われれば少なくとも 10 ドルでは足りないことぐらいわかりそうなものですが、そこまで頭も回りませんでした。

握手すら怖くてできず

サンタモニカビーチ
サンタモニカビーチにて (2005 年 12 月撮影)

残りの滞在時間は観光をしました。サンタモニカに行った時の事です。目的はショッピングエリアとビーチの散策でした。

ショッピングセンターに入ってウロウロしていたら、一人の黒人さんが私の所に向かって来ました。そして私に握手を求めてきました。私は怖くなって無視してしまいました。その黒人さんは大声で何かを言ってましたが、もちろん聞き取れませんでした。

人種差別と受け取られても反論できないことをこの時してしまいました。その黒人さんはエンターテイナーだったのでしょうか、シャツに蝶ネクタイ・センタークリースハットという身なりで決して怪しい感じの人ではありませんでした。しかしここまでお話したように、当時は全く英語が喋れなかったため、握手をして捕まったらどうしようと思い「逃げ」てしまったのです。もちろん今ならそういうことはしませんが、当時はまず学会発表をやって無事に帰るのが目的でした。これも苦い思い出です。

渡米前に英会話教室のアメリカ人先生(第 4 話)に「ロサンゼルスの名物は何か?」と質問して「犯罪 (crime) 」という答えだったので、なおさら警戒してしまったのでしょう。食べ物やお土産物を答えて欲しかったのに…。

サンタモニカ・ビーチはとてもきれいなところでした。ビーチ沿いに観覧車などの遊園施設もあってとても癒されました。海に向いているベンチに座り、はるか遠くの日本の方を見つめて、ここまでとりあえずやり切ったと感慨にふけっていました。

それでもハリウッドへ

ハリウッドのセブンイレブン
ハリウッドにて (2005 年 12 月撮影)

せっかくロサンゼルスに来たので、ハリウッドの白いサインを見にロサンゼルスの地下鉄に乗りました。そこで、別の黒人男性に絡まれかけました。無傷で何も取られませんでしたが、私が車両の扉付近に立って本を読んでいたところ、猛接近されてキスされそうでした。駅について扉が開いた瞬間、その男性は猛ダッシュでどこかへ…。

地下鉄の駅を降りてしばらく歩くと、無事にあの白い “HOLLYWOOD” の看板を見ることができました。怖くてそれ以上散策はできませんでした。 “Walk of Fame” くらいは行くべきでしたね。

そのほか、 UCLA にも行きました。ホテルのネットでバスの乗り方を調べて行きました(まだスマートフォンは普及してなく、モバイル環境も今ほど整ってません)。ホテルの売店のおばちゃんがたまたま日本人で、バスで UCLA に行ったことを伝えたら「あんた度胸あるねぇ~初めてのアメリカでそこまでできないよ」と言われたのは今でも覚えています。

10セント型ネクタイピン
自分へのお土産として買ったネクタイピン

2018 年 1 月時点で、アメリカに行ったのはこの1回だけです。当時の自分へのお土産として、ホテルで 10 セントコインの形をしたネクタイピンを購入しました。錆びてきてますが今も大切に使っています。

第2話:英語洋書多読との出会い

第4話:TOEIC400点までに読んだ洋書ベストセレクション

まとめページ「英語習得物語 目次」に戻る

シェア
この記事のカテゴリ:英語習得物語
この記事のタグ:なし

このブログを書いている人

ダイブツ
twitter: @habatakurikei
元々IT系だけど電気系技術者。20代で博士号を取得するも、全然社会の役に立てないのが不満でブログによる情報発信を開始。あなたに有益な知識やノウハウを理系目線かつ図解でわかりやすく解説するのがモットー。2018年心臓発作であわや過労死寸前。そこからガジェットレビューを通じた体調管理の情報発信も開始。ベルギー在住でシンガポール就労経験もあり、海外転職や海外生活のノウハウも公開中。

私の詳細:プロフィール

このような記事も読まれています

英語習得物語 第2話:英語洋書多読との出会い

私が英語を学習するうえで、避けて通れない運命の出会い?というか、大いに助けられた本を紹介しつつ、私の英語学習記録を振り返りましょう。私が20歳でTOEICを初受験したちょうどそのころ、この本を手にしました。向山淳子、向山貴彦著 『ビッグ・ファット・キャットの世界一簡単な英語の本』 幻冬舎 (2001)でした。