英語習得物語 第1話:英語コンプレックスだった私
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平凡な学生生活
まずは私が大学院生になるまでの英語とのかかわりについてお話ししましょう。
私は中学・高校とも地元の公立校でした。中学生の時は学習塾に通っていたとはいえ、両親は「せめて大学くらいは行ってほしい」という感じでそこまで教育熱心ではありませんでした。
中学では英語に対する苦手意識は特にありませんでした。しかし高校に入学してからは厳しい運動部に入ったので、毎日の部活の練習で疲れて授業に全くついていけず、塾通いもせず、成績は良くありませんでした。英語の試験はおろか、理系の大学に進学するのに物理の試験で4点を取ったくらいです。
高校 3 年生の夏から受験勉強を始めました(もちろん英語と数学が含まれます)。中学生の頃に通っていた学習塾にもう一度入り勉強をするも問題が全く解けず、中学生時代の私を知る先生からは「あれほど部活はやるなと言っただろ!」とひどく怒られたのは忘れません。
それでも半年間猛勉強し、大学に入学することができました。塾の先生からは「もっと勉強すればもっといい大学に入れる」と言われましたが、学校の授業についていけなくなったあの時の記憶と、その学習塾で受けた厳しい授業が嫌でもう絶対浪人はしたくありませんでした。
20歳でTOEICを初受験して245点
大学入学後も英語とは無縁で、アルバイトと麻雀をやる普通の学生生活でした。しかし当時はそれなりに「社会人になったら TOEIC スコアは必要」とか「社会人になったら本くらい読めないといけない」という認識はありました。振り返るとなぜそう思ったのか、全く思い出せません。当時の私にはそういった社会人像があったのでしょう。
20 歳といえば大学 3 年生、就職活動もそろそろ始まるころ、試しに TOEIC を受けてみたのです。 TOEIC 対策は何もしませんでした。振り返るとよく受験料を払って受験したものです。当時のアルバイト代から自己責任で支払ったのは確かです。
スコアは 245 点でした。当時の公式スコアシートは見るのが恥ずかしくて捨ててしまいました。
TOEIC を初めて受験したときのことははっきり覚えています。
- リスニングは問題文も選択肢も何も聞き取れなかったため、他の受験者がマーキングする音に合わせて自分も適当にマークした。
- リーディングでも問題文や選択肢を全く読めなかったため、塗り絵のように適当にマークして試験終了の合図を待った。
- しかもこの時、腕時計を忘れて時刻が分からずただ待つ時間が苦しかった。
このような感じで、英語は諦めて日本でサラリーマンとして生活していくつもりでした。海外には全く興味がありませんでした。
修士課程では中国人留学生と全く会話できず
そんな学生だった私が大学院に入ります。入学したのは大学からの推薦もありました。しかし研究活動に純粋に惹かれたこと、そして大学受験で浪人せず大学に入ったことを振り返り「自分がどこまでやれるかチャレンジしたかった」というのが理由です。
指導教授は中国語がペラペラで、私がお世話になり始めたときは既に中国本土や台湾と私的な大学間交流がありました。そして修士課程 2 年目の夏、中国から留学生が来て研究内容を英語でディスカッションすることになりました。
その中国人留学生(彼も大学院生)は英語をつっかえずにペラペラ話し、私にまくしたてるように(と当時は感じた)質問してきました。指導教授に助けを求めるも見て見ぬふりされ(自力で何とかしてほしいという教育だったのでしょう)、自分の英語は泣きたいくらい通じず、トラウマすら感じました。
結局指導教授が中国語で彼とコミュニケーションをとり交流自体は果たせたのですが、私にとっては苦い思い出になりました。
一念発起?英語で論文を書くしかない!
修士課程を修了し、博士課程に入学しました。博士課程まで進んだのは、やはり研究活動そのものが充実していたからでした。論文や著書をはじめとする資料を読んだり、プログラミングをしたり、新しいことを考えるのが楽しかったのです。発明や特許と呼べるレベルの研究はできませんでしたが、将来的には研究者として世の中に貢献していきたい、と思うようになりました。
しかし、博士号を取るにはやはり英語でのプレゼンが必要になります。 TOEIC のスコアも目安として求められますが、英語で研究発表をすることが「英語ができる」ことの裏付けとして評価されたのです。
私の研究はどちらかというとコンピュータ上で動くソフトウェアで「ハードウェアのように新しい仕組みを物で作って評価する」という形の研究活動と論文発表ができませんでした。
理系の論文は実験と評価が重要な役割を持ちます。ソフトウェアであればシミュレーションという形の評価もできますが、当時は綿密なシミュレーションと評価基準を自分では考えられませんでした。それではどうやって自分は研究して論文を発表して博士号を取るか?考え抜いた結果が「英語で論文執筆」でした。
私が関わっていた研究分野に限って言えば、英語論文は実験や評価が十分でなくても、新しい手法や知見が含まれていれば、その点を評価して採用してもらえる傾向がありました。そのため、日本語で研究発表するよりも英語で発表した方が近道かもしれない、英語で研究発表をすることが一人前の研究者への道だろう、どのみち海外発表は必須だし…という流れで学習を始めることにしました。
以上をまとめると、海外生活にあこがれているとか、外国人の妻(彼女)が欲しいとか、洋画を字幕なしで観たいといった理由で英語を学習したのではありません。研究者の共通言語として英語を身につけて自分のキャリアに生かしたい、というのが動機でした。
研究ノートとは別に英語学習ノートを作り、記録を始めました。記録開始日は 2005 年 8 月 2 日、私は 24 歳でした。