マナーとは状況判断力『礼儀覚え書—過不足のない美学』

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今回の書評は『礼儀覚え書—過不足のない美学』です。

礼儀覚え書成分

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昭和の時代に書かれた礼儀作法のエッセイ集

マナーについてはツイッターなどで「ああすべき、こうすべき」とよく議論されています。

「人に迷惑をかけてはいけない」これは誰もが同意するでしょう。しかし同時に「マナーのせいで生きづらく感じている」のが今の日本です。

本書は雑誌記者や編集者を経験した著者・草柳大蔵氏(故人)が書いた短編をまとめた「礼儀作法についてのエッセイ集」です。

マナー本といえば通常、マナー講師と呼ばれる人が「おじぎは◯◯度、名刺は折れ曲がったものを渡してはいけない、言葉遣いは…」と細かいテクニックを教えてくれます。そしてこういうテクニックをマスターすることで「社会人とはこうあるべき」という意識を植え付けます。

後ほど詳しく書きますが、マナーは法律ではありません。マナー本に書かれている通りにやらず「社会人としての素養がない」というのはただのレッテル貼りです。むしろ最近は「ドアを2回ノックするのはトイレを連想させるので失礼」といった「人の評価を減点する目的の意味不明なルール」が増えていると感じます。

日本のマナー教育って結局は「人間の機械化・ロボット化」です。お辞儀の角度とか機械の方が正確にできますよ。それを無理やり人に覚えさせて「個性」を抜き取るのは学校教育から続く日本の風習です。

本書は短編をまとめたものなので内容は断片的です。「贈り物の選び方」や「箸の持ち方」、「電話の態度」といった古典的な内容がどうしてもメインです。また昭和の時代に書かれたものなので、今の時代に当てはまらない内容もあります。デジタルネイティブにとっては読んでも意味がわからないかもしれません。

それでも本書を紹介したいのは、マナーや礼儀作法の「本質的な考え方」について書かれているからです。著者は自分の失敗談、つまり経験をベースに正直に自分の言葉で書いています。

マナー講師のような上から目線ではありません。そこが共感ポイントです。

マナーを守ることに縛られている人、特に若い人たちに伝えたいメッセージを1つ本書から引用させてください。

恥は、マナーやルールを知らないからかくのであって、あなたが愚鈍だからではありません。

草柳大蔵 『礼儀覚え書—過不足のない美学』 グラフ社 (2000) pp.16–17 より引用

「マナーを守れない人=人としてダメ」という風潮が今の日本にはあります。それには警笛を鳴らすべきです。監視社会になっていると言わざるをえません。

「過不足のない美学」つまり「相手や状況によって正解は変わる」がマナーの本質

結局マナーとは何なのでしょうか?

本書のサブタイトル「過不足のない美学」がすべてを言い表しています。臨機応変といってもいいでしょう。

TPO という単語を聞いたことはありますか? Time (時)、 Place (場所)、 Occasion (場合)によって服装を選ぶという意味で使う単語です。

フォーマルとカジュアルの使い分けですね。故人の弔問に訪れるにしても、告別式ではフォーマルな礼服を着用しますが、お通夜に礼服を着ていったら「死ぬことが分かっていた」と思われてしまいます。

作法は「結果」であり、常にそうするという「法則」ではありません。マナー本に出てくる例はすべてケーススタディです。普遍的な法則ではありません。

だからこそ、マナー本を読むのであれば「なぜそういう作法になったのか?」という「そもそもの考え方」を理解しなければいけません。

デジタル化で手紙を書く習慣がなくなり、固定電話の対応も機会が減り、今や電子メールですら過去のものとなりつつあります。スマートフォンのアプリ (LINE, Messenger, WatsApp, etc) では電子メールの作法ですら当てはまりません。ではどうやってマナーを守るのですか?

相手や状況に応じて臨機応変に行動する。それが結果的にマナーだと考えています。相手が怒らなければそれでいいのではないでしょうか?

マナーを法律と同じように扱ってはいけない

自分の価値観を押し付けていませんか?

マナーは法律ではありません。あくまでも各個人の中にあるルールであり、文章化(条文化)と共有化(施行)されていません。「君はマナー違反だ」と声に出すのはまだしも、それで人格否定までするのはおかしいです。

1例を紹介しましょう。ホリエモンこと堀江貴文氏が炎上した「(新幹線や飛行機など)シートを倒すときは「倒してもいいですか?」と後ろの人に一声かけるべきか?」という論争がありました。私はホリエモンと同じで「声はかけなくてもいい派」です。なぜでしょうか?

もちろん声をかけるのは「倒す側の親切」であり、声をかけるという行為自体が悪いのではありません。

では、後ろの人が寝ていても声をかけないとダメですか?寝ている人を起こしてでも「シートを倒してもいいですか?」と声をかけるべきですか?後ろの人が小さい子でも声をかけないと失礼ですか?小さい子なら席を倒してもそれほど圧迫しないと思いますが?

ここまで書くと批判されそうですね。しかし私の感覚からすれば、まさにここまで書いてきた「状況判断」なんです。そしてツイッターやテレビ・ネットの討論会で話がかみ合わないのは「こういう状況では」といった細かい事例で議論しません。何でもかんでも一般論でしか話しません。

私は海外生活も経験していますが、海外の鉄道や飛行機でシートを倒すときに声をかけられたことなど一度もありません。なぜなら「シートを倒すときに声をかけない」のが世界の常識だからです。

例えば倒したひじ掛けが隣の人の体にぶつかったりすれば sorry と言います。それは普通です。しかし倒す前に声をかけるという行為は、日本人独特の「事前に○○する」というクセではないでしょうか?

ホリエモンの主張の本質は「勝手にルールを作って押し付けるな」です。この批判は的を射ています。マナーは法律ではありません。「みんなこう思っている」という暗黙の了解というか、明文化されていないルールを押し付ければどんどん息苦しい社会になります。

真面目な人ほど「何が正解なの?」とパニックやストレスになります。でも法律のように文章として共有されていない以上、共通の答えはありません(ただし法律には解釈の問題もあるが、ここでは考えない)。人によってやるべき作法の答えは変わります。

だからこそ、本書の「過不足のない美学」をひとりひとり身につけることが必要なのではないでしょうか。最後にもう一度本書から引用させていただきます。ホリエモンの主張と似通った部分もあるでしょう。

つまり、「躾〔しつけ〕がいい」ということは、「動作に過不足がない」という意味なのです。動作に過不足がないということは、人生の過ごし方にもその人なりの枠がきちんとでき、無駄な背伸びやいわれない劣等感にとらわれずに生きてゆくということです。

草柳大蔵 『礼儀覚え書—過不足のない美学』 グラフ社 (2000) p.37 より引用 〔〕は補足

今回紹介した本

草柳 大蔵, グラフ社, 2010
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