パソコンをほぼひとりで発明した男『アップルを創った怪物』
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今回の書評は『アップルを創った怪物―もうひとりの創業者、ウォズニアック自伝』です。
スティーブ「ジョブズ」ではなく「ウォズニアック」を知ってほしい
スティーブ・ジョブ氏が亡くなってからもなお、アップルの最大の貢献者はスティーブ・ジョブズ氏であるのは異論がないでしょう。
私は技術者という仕事柄、彼ばかりにスポットライトが当たることに納得ができません。本書はもう一人のスティーブである、スティーブ・ウォズニアック氏の自伝です。
パーソナルコンピュータを発明したのは彼と言ってほぼ差し支えありません。パソコンのマザーボードに相当する基板をひとりで設計してしまいました。
ウォズニアック氏は Apple I を設計するきっかけとなった日を「コンピュータ革命が起きた日」と本書で述べています。それくらいのインパクトがあったことは間違いないでしょう。
きっかけとなったのは、ホームブリュー・コンピュータ・クラブという会合でした。会合が開かれた場所はメンロパーク。かつてトーマス・エジソンが「メンロパークの魔術師」と呼ばれ、多数の発明を生み出した研究所があった場所と偶然にも同じ名前です。
※注意:ただし、エジソンのメンロパークはニュージャージー州、ウォズニアック氏の言うメンロパークはカリフォルニア州にある同名の異なる場所です。勝手にシンクロしてしまうのは危険でしょうか?
もちろん、ウォズニアック氏ひとりではアップルをあれだけの大企業にはできなかったでしょう。ジョブズ氏があの基板設計に可能性を見抜いたからこそ Apple I として製品化するために部品を入手したりプレゼンして売り込みをしたのです。
どの企業でもあることですが、営業など市場(お客様)に近い側で働く人たちはどうしても目立ちます。一方、設計や開発をする側はどうしても裏方扱いでなかなか表にでません。
本書を通じて技術者(いわゆるプログラマだけでなく、ハードウェア系のエンジニア)にもっとスポットが当たって欲しい、というのが本書を紹介する目的のひとつです。
日本で技術者が優遇されない。それは技術者の社会的貢献度が経営者などに理解されていないのでは?という憤りもあります。また社内的・社外的にどうしてもアピールが足りないから、とも言えます。
技術者はあまり社交的ではない人も多く、表に出るのを好まない傾向にあります。モノづくりが好きな人は、目の前の設計や細かい作業に打ち込むのが好きです(私も何かに打ち込むのが好きです)。そのためお金や待遇にこだわらない人もいます。ウォズニアック氏も本書内で「自分はシャイでお金のためにアップルで働いたのではない」と言います。
経営者層や人事がもっと理系のリテラシーを持つべきですが、日本には理系・文系という区分けがあるので今後も改善するかどうかはわかりません。一方、アメリカには理系・文系のくくりはありません。あるのは◯◯専攻という区分けのみです。日本よりも自由にいろいろ学べる風潮があります。そのためアメリカのエリート層には一定のサイエンス・リテラシーがあるのでは、とも推測しています。
本書の前半はウォズニアック氏の幼少期からアップル創業前までの話。後半はアップルでの活躍からアップルを離れて新たな活動を始めるところまでの話です。相当なボリュームなので読むのに覚悟も必要かもしれません。しかし本文は語り口調なので、ウォズニアック氏から話しかけられている感じがします。読むのはそれほど難しくないでしょう。
ウォズニアック氏は本書の最後にて「エンジニアリングは芸術だ」と (kindle 版位置 No. 4982 付近)と述べています。
本書に出てくる発明品については、一部ハードウェアの予備知識も求められるため難しいかもしれません。しかしこれまで世になかった発明品が新しく出てくることはまさにアートといえるでしょう。その開発プロセスにはワクワクするものがあり、本書を通じて伝われば嬉しいです。
フロッピーディスクも設計するがソフトを消す天才
ウォズニアック氏はやはり天才なんだ、そう思えるエピソードを本書から紹介させていただきます。
ウォズニアック氏は Apple II 向けに Disk ][ というフロッピーディスクドライブを設計しました。他社製の従来品よりも少ない部品で回路構成をしているため小型化、低価格化に成功しました。しかも 2 週間で展示会に出す試作品を作りました(今の大企業のスピードであれば 3 か月は必要)。
そして、回路だけでなくディスクを読み書きするソフトもウォズニアック氏は制作しました。
この新製品を国際家電ショーで発表するためにラスベガスに行きます。むしろラスベガスに行きたくてフロッピーディスクの設計を経営層に提案しました。ウォズニアック氏は初めてのラスベガスを半分旅行のように楽しみました。
遊び疲れてホテルに戻ってきたとき、ふと制作したソフトのバックアップを取ろうとするのですが、なんとソフトを消してしまうのです。「ソフトが書かれていたディスク」に「空のディスク」を上書きしてしまったのです。
私が同じことをしていたらどうでしょう?自分を責めるのもそうですが、上司や周囲から「何とかしろ!」と怒られるに違いありません。普通のメンタルでは耐えられません。
このような大失敗に反省しつつも、ウォズニアック氏は「コード(プログラム)を覚えていたので数時間でもう一度書いた」と振り返っています。
もちろん自分が書いたプログラムは基本的に自分でも覚えています。私もプログラミングはできるので「そんなの当たり前だ」と言いたいところです。
しかし彼の時代は違います。彼が書いたソフトはフロッピーディスクに読み書きする「コントローラー(ドライバ)」と呼ばれるものです。コンピュータ上であれこれ計算して画面表示をするようなプログラムではありません。フロッピーディスクのどこに・何を読み書きするのかを実現するために「ヘッドやテープなどのハードウェアの制御」をするプログラムです。上の図にイメージを描きました。
今はハードウェアの存在を気にせずにプログラミングが簡単にできる時代です。またハードウェア系の開発でも、試作がやりやすいように物が揃っています(評価キットと言います)。少ない命令でたくさんの機能が実現できるように「ライブラリ」も充実しており、プログラム制作がより容易にできるようお膳立てができています。
果たして、ウォズニアック氏の時代は全く違います。どのようなプログラミングをしたのでしょうか?
私が英語で調べた限り判明しませんでした。しかし恐らくですが、機械語(かアセンブラ)だと考えられます。 C 言語の発表は 1972 年、 Apple Disk ][ は 1978 年発売。 C 言語でコーディングされた可能性もあるのですが、当時の先端チップに C コンパイラが用意されていたとは思えません。ましてや CPU の速度に合わせてディスクの制御をしていたのです。そこまで細かい制御をするには機械語しかない。機械語のコードが全部頭の中にあった、としか考えられません。
どれくらい難しいプログラムを書いたのか、それが垣間見える文章があります。本書から引用させていただきます。
フロッピーに関して僕がしたのは、ハードウェアの設計と状態マシンのコーディングだった。特殊なコーディングがされたデータをフロッピーディスクに読み書きする、きっちりとタイミングをはかったコードも書いた。ここが僕の強みだからね。
さらっと言っていますが、ここまで書いたように相当複雑なプログラムを書いたことが想像できます。私のような凡人ではホテルで数時間以内にそこまで復元する自信はありません。こういうエピソードこそ天才だと思うのは私だけでしょうか?
天才も燃え尽きる?
もう 1 つ、忘れられないエピソードがあります。天才にも「役目」があるのかな、としみじみ思ってしまう話です。
アップルでの仕事を離れて、当時としては誰もやっていなかったユニバーサル・リモコン(機器ごとにリモコンを持たずに 1 つに統一できるリモコン)の会社を立ち上げます。そのリモコンの設計のために 8 ビットのマイクロプロセッサーのプログラミングに取りかかろうとします。
しかし全然手が動きません。その頃ウォズニアック氏は子供にも恵まれ、父親としての務めも果たしている最中でした。ただ当時の奥様ともうまくいかず、気分転換にハワイに旅行に行きます。
その旅行先のホテルでの出来事をこう述懐します。本書から引用させていただきます。
で、どうなったと思う?結局、あそこに四週間泊まったけど、コードなんて一行も書けなかったんだ。何もしなかった。本当に何も。ただ、あそこでの時間を楽しんだだけだった。僕があそこにいる間にスペースシャトル、チャレンジャーの事故が起きた。一九八六年一月二八日のことだ。
このときウォズニアック氏は 35 歳 (1950 年 8 月生まれ)。日本では「プログラマ 35 歳定年説」といううわさが流行ったこともあります。今日ではこの説はおおむね否定されており、単純に年齢だけでプログラマの寿命は決まらないのが定説です。
だったらまだまだイノベーションを起こせたのではないか?そう思いたいですね。
しかし時代の先端を走っていたウォズニアック氏は、ある種の燃え尽き症候群のようになっていたのかもしれません。本人も「 4 ビットマイコンで精神的な限界を超えた」とも言っています (kindle 版位置 No. 4725 付近)。
「次の世代にバトンタッチする」という役目があったのかもしれません。
この件がきっかけで、自分が第一線で作業をすることを退き、プログラマを雇って仕事をさせます。そして子供たちとの時間を増やし、さらに仕事も「開発よりも社会的な活動」の方に舵を切っていくのです。
このエピソードから私が思うこと、それは「人生にはいくつかのステージがある」ということです。
小さい頃からバリバリ設計をやっていたのに、35歳を境にステージが変わった。人それぞれですが、そういった節目はあるのかもしれません。
私にとっての 1 つの節目は 34 歳の時、海外に出て技術者としてやっていけるかチャレンジしたことです。ウォズニアック氏のように家庭はありませんが、自分の人生を大きく変えたタイミングでした。
この記事の執筆時点で私は 38 歳、まだ家族はありません。しかし本書を読んで1年以上経ってもこのエピソードを今でも覚えているということに、何かメッセージがあるのかもしれません。